★ STRAY JAMPER ★
クリエイター八鹿(wrze7822)
管理番号830-7657 オファー日2009-05-19(火) 20:42
オファーPC リョウ・セレスタイト(cxdm4987) ムービースター 男 33歳 DP警官
<ノベル>


 キィ……と木が柔らかく軋む音。
 瞼を開くと小さな舟の上に乗っていた。
 静かな波に揺れながら、舟は中世代めいた石造りの建物に囲まれた細い水路をゆっくりと進んでいる。
 舟の黒く塗られた独特の形状には見覚えがあった。確かゴンドラという。イタリアはヴェニスの渡し舟。観光物の意味合いも強いためか、舟に積まれている椅子は豪勢で座り心地も悪くない。
 この舟がゴンドラだとすれば、周囲を流れる街並みはヴェニスの……あるいはそれを模したものだと判る。通常、ゴンドラにはゴンドリーエと呼ばれる船頭が居る筈だが、目の前の椅子に座る少女がゴンドリーエだとは思えなかった。
 少女は眠っている。
 年齢は10歳、11歳……その辺りだろう。緩くウェーブ掛かったブロンドの髪、陶器のような白肌、長く淡い睫毛が小さな呼気に合わせて、微かに上下している。芸術品の中から抜き取ってきたような美少女。
 身に着けているものは黒を基調としたもので、それは喪服のように見える。
「さて……」
 見知らぬ同乗者はまだ眠っている。
 リョウは舟の上の椅子に座ったまま足を組み直してから腕時計を覗いた。
 時計の針は先刻確認した位置からほとんど動いていない。
(意識は跳んでいない)
 それから、口元に指を掛け、状況の整理を始める。
(確かに、俺は綺羅星ビバリーヒルズのショッピングモールに居た。約30秒前まではな)


 
 ◆Stray Jamper◆



 まず間違いなくハザードに巻き込まれたと見て良いだろうが、周囲に少女と自分以外の者が居ない。しかし、リョウが引き込まれた時、ショッピングモールには多くの人が行き交っていた筈だ。
 となれば、物理として現れるようなものでは無く、現象として現れ、人を捉え込むようなタイプだと推測出来る。
(そして、俺と彼女は取り込まれてしまった)
 少女は天使のような顔をして眠っている。
 キィ……と木の軋む音。
 音を辿って後ろを見れば、漕ぎ手の居ないオールがゴンドラの先で水の流れに揺れていた。
 細い水路は霧でかすむ向こうまで続いてる。
 ゴンドラは静かに静かに波紋を広げながら進んでいた。
 と――舟底に落ちているものに気付く。
 小さな、黄色い花弁。
「……う、ん」
 小さく揺れる幼い声。
 そちらへと視線を返す。
 少女が目元を擦り、ゆっくりと目を開けていた。
 そのぼんやりとした寝ぼけまなこがリョウの方を見る。
「……貴方、誰……?」
「リョウだ。リョウ・セレスタイト。良く眠れたかい? お嬢さん」
 リョウは意識を必要としないで柔らかく微笑していた。
 そういう風に体が出来ている。
「ふぁ……」
 少女は、大きく口を開けて欠伸をしながら、その大きな碧い瞳をリョウの顔を改めて向けてきた。
 そこで、一瞬、彼女の動きが止まる。
 そして、少女は慌てた様子でギュ、と欠伸した口を無理やり両手で押さえ込み閉じて、リョウを見る眼を睨みに変えた。
 その頬がクゥと赤くなっている。
 リョウはクスリと優しく笑みを零した。
「別に恥ずかしい事じゃない。天使の欠伸は可愛らしく、魅力的なもんだ」
「でも……淑女の欠伸は美しくないわ。貴方が本物の紳士なら、きっと目を逸らしていた筈よ」
 やや背伸びを感じさせる言葉を並べて、彼女は不機嫌そうな顔に片手を残しながら、びっとリョウの方を指差してくる。
 リョウは、その小さな指先を受けて涼しく目を細めた。
「すまない。君の愛らしさに見惚れてしまっていた」
「――ッ」
 少女が指先まで真っ赤になる。
 ぐ、と眉尻を上げた顔が、何やら悔しそうに顰められ、その視線はリョウからゴンドラの外へと逃げた。
「……あ、貴方って、誰にでもそういうこと言ってるんだわ。言い慣れてる感じがするもの。知ってる。貴方みたいなのを女の敵っていうの」
「俺は女性の味方だ。敵にして敵うと思うほど愚かじゃない」
 軽く肩を竦めてみせる。
「それから、俺が君を口説くのは10年後だな。安心していい」
「……私が子供っぽいってこと?」
「10年後、君はとびきりイイ女になってるって事だ」
 少女は、リョウの方を見て、その大きな瞳を大きく一つ瞬いた。
 そのまま暫くリョウの笑顔をぼぅっと見ていた後、彼女はハッと気付いたように顔をそらして、それを誤魔化すようにいそいそと舟の縁へと寄っていった。
 リョウは頬杖を付きながら少女を眺めた。
 彼女は、やや赤らんだ顔を水面に向けながら舟の端から手を垂れる。
 つぅ、と水に触れた少女の指先から波紋が伸びて広がっていく。
「驚かないんだな」
「……驚いてるわよ。だって気付いたら、いきなり失礼なタラシ男と一緒だもの」
「もっと根本的な状況に、だ。君や俺の置かれている」
「どういうこと……?」
 少女が怪訝にリョウの方を見遣ってくる。
 リョウは片眉を僅かに上げる。
「君は、さっきまで何処に居た?」
「さっきまでって……」
 少女の表情が僅かに曇る。
 そして、それは段々と深刻な色を見せていった。
「私……どこに……? え、あれ……私……」
(……マズったか?)
 リョウは静かに立ち上がり、少女の元へと歩んで、そこに跪く。
 覗き込んだ彼女の瞳には動揺が浮かんでいた。柔らかに少女の頭に触れる。
「大丈夫だ。ゆっくりで良い」
「……覚えて、ないの」
「まだ混乱してるんだ」
 リョウは微笑んで、彼女の髪を指先で梳いた。
「自分の名前は、どうだ?」
「名前……名前は、リータ」
「リタ。他には何か……両親の事とか」
「両親……私の、パパと……ママ……」
(駄目、か)
 彼女の表情から汲む。
 記憶喪失。
 頭部に衝撃を受けた形跡は無い。外的なショックで、というわけでは無さそうだ。
 相手は小児だ。唐突な環境の変化に対しパニックを起こさないために体が一時的に記憶を閉じた、という事もあるかもしれない。だとすれば、記憶は時間と共に自然に解かれるだろうから、それほど心配する必要も無いとは思うが。
「私……何も、覚えて……」
 少女が、やや虚った瞳を上げてリョウを見る。
「リタ、大丈夫だ。やはり今は少し混乱しているんだろう。だが、時間が経てば全て思い出す。焦る必要は――」
 言い掛けたところで。
 リョウは、少女の腰に片腕を回して彼女の体を鋭く引き寄せた。
「キャッ!?」
 と同時に、もう一方の手でナイフを抜きざまに一閃する。
 少女の背後にヌラリと伸びていた細く白い手が血も無く裂かれ、千切られた先がボタンッと川面に落ちて、水音。水飛沫。
「な、何なの!?」
「さあな?」
 視線を巡らせる。
 いつの間にか水面より生え、舟の縁に掛けられいく幾つもの白い手。幾本かが縁を越えて、こちらへとズルンと伸びた。
「綺麗な手をしている。女の手だな。……おそらく、美人だぜ」
「は――? そんなの冷静に分析している場合じゃないでしょ!」
「言われてもな。手以外は見えないわけだし」
「馬鹿なのッ!?」
「妬いてるのか?」
「こ、こんな時に極上の笑顔を浮かべないでよ! この状況を見て考えて!! どうするのよッ!!」
 などと言っている間にも、わらわらと白く伸びた無数の手が這い寄ってくる。
「とりあえず、捕まるわけにはいかないよな」
 リョウは少女を抱きかかえながら、立ち上がり。
「あ……」
「息を吸って、止めろ。水を鼻で吸うと痛い目に合うぜ?」
 腕の中、こちらを見上げてきた少女の顔にウィンクをする。
「え?」
 彼女の大きな瞳が疑問だらけの瞬きを一つ。
 そして、リョウは少女を抱えたまま舟底を蹴って、水路を流れる川の方へと大きく飛んだ。


 ■


 冷たい水の感触を想像していた。あと、耳に弾く水音と。
 しかし、あったのは固い地面の感触で、聞こえたのは遠くで掠れる陽気な音楽だった。
 ラッパと太鼓の音が奏でるその何処までも滑稽なメロディには奇妙な懐かしさを感じる。
 細く息を吐きながらリョウは首を巡らせた。
 水も手もあの水路を挟む街並みも、無い。在ったのは遊園地だった。
 その真ん中に二人は居た。
 寂れている。人が居ないというだけじゃない。朽ちているのだ。
 メリーゴーランドもコーヒーカップも巨大なブランコも全て、朽ちている。
 時間に焼けて黄色味が掛かった白馬の所々で塗装は剥げ、馬を支える鉄棒には錆びが浮かぶ。
(……跳んだ)
「……も、もう、いいでしょ。降ろしてくれない?」
 少女の居心地悪げな声。
 リョウが見下ろすと腕の中で少女がやや赤らめた顔を顰めて、じとっとリョウの方を見ていた。
「羽のように軽いから気付かなかった」
 リョウは軽く笑み戯れてから少女を地面に降ろす。
「……貴方って本当に緊張感が無いわよね」
 少女が呆れたように零して、ほぅと息を付いた。
「びしょ濡れになると思ってたのに」
「俺も煙草が駄目になるのを覚悟したんだがな」
「吸っても良いわよ?」
「今はいい。君と別れた後で、君を想って吸おう」
「……どうして、貴方って、そう恥ずかしいことをぽんぽん言えるの?」
 むむ、と口元を歪ませた赤面少女が恨めしそうにリョウを見上げた。
「照れてるのか?」
 リョウは、ぽんと少女の頭に手を置く。
「あ、貴方の分まで恥ずかしくなってるのっ!」
 彼女は、ひゃっと逃げて頭を抑えながら言った。
(まるで、小動物だな)
 リョウは小さく笑いながら改めて周囲を見遣った。
 欠けたタイルを敷き詰めた道、マンホール。
 端の見えない広い敷地の向こうには、先ほどの水路で見上げたものと同じ灰色をした空を背景に、黒々と観覧車がそびえ立っていた。
 ピエロでも出てきそうな音楽は未だ何処からか遠いところで鳴っていたが、果たして何処で鳴っているのか検討が付かない。距離が掴めない。
「……不気味な場所……嫌な感じがする」
 リョウと同じように辺りをうかがった少女が呟いてリョウの傍らにそろりと寄る。
「早いところ抜け出したいな」
「どうやって?」
「わからない」
「駄目じゃない」
 呆れたように言われるのを簡単に笑って受け流し、リョウは歩き出す。
 少女がリョウの横に付いて歩きながら半眼に落とした目を向けてくる。
「肝心な所で”役に立たない”男は考えものだわ」
「そんな言葉どこで覚えるんだ?」
 聞いてやると、彼女は不思議そうに瞬いた。
「……私、変なこと言った?」
「いや。とにかく、今はまだ手掛かりが少ない。もう少しデートに付き合ってもらうぜ」
「私は高いわよ? そこらの安い女と一緒にしないようにね」
 少女が、つ、と顎を上げながら生意気に言う。
 リョウは、くく、と笑ってしまってから、片目を閉じつつ口角を上げた。
「プレゼントするアイスは三段に重ねなきゃな」
「足りないわ。チョコチップをトッピングして頂戴」
「金を払う手が震えそうだ」
 と――。
 ホラーハウスの角を曲がった所で、どちらともなく立ち止まる。
 寂れてモノクロの景色の中に、黄色い花が揺れていた。
 道の端の花壇にわっと生えている小さな黄色い花々。
「……あれは」
 隣に佇んだ少女が呟く。
「レンズ豆の花……?」
 途端。
 ガコン、と大きな音が響いて辺りのアトラクションに一斉に灯りが燈った。
「――えッ!?」
 ギ、ギ、と軋みを上げながらメリーゴーランドは周り、音の間延びしたワルツと共にコーヒーカップが回転し始める。
 リョウは、不安げに彼に寄り添った少女の頭を撫でながら銃を抜いた。
 地面から。
 ヌゥ、と白い塊が姿を見せる。幾つも。二人を囲う様に次々に地面から生えてくる。それは、女性の形をしていた。長い白髪、同色の白いワンピース、白い手、しかし、顔のパーツがあるべき場所には何もない。ツルリとした表面がある。
「逃げるぞ」
 リョウは少女を片手で抱き上げながら短く言い放ち。
「――ひゃ」
 少女を肩に担ぎ上げて走り出す。
「ちょっと! これッ、レディに対する扱いじゃないわ!」
 肩に担いだ少女が手足をばたばたとさせながら騒ぐ。
「暴れないでくれ。これが一番やり易いんだ」
「最低ッ! 最低ーッ!」
 リョウは、少女がぺこぺこと背中を叩くのを感じながら僅かに苦笑を浮かべ、ぬったりと生えた白女達に向かって次々に引き金を引いていく。
 銃声と共に撃ち出された弾丸。
 それは撃ち出された分だけ的確に白女を撃ち抜く。しかし、弾丸に貫かれたそれは体に穴を開いて衝撃に少しばかり動きを止めるものの、それきり、何事も無かったかのように、また、ゆらりゆらりと歩を進めてくる。
 リョウは横目でそれを確認しながら、進行方向へと銃口を投げ出した。
 視線は追って、前方に立ち塞がる白女どもの先頭の一体へ。
 その両膝に一発ずつ。
 走る足先に力を込めて飛び、体勢の崩れたそいつの体を踏みつけ、足台にして更に高くを飛んだ。
「きゃぁああ!?」
 何体かの白女を飛び越え、膝を使って衝撃を吸収しながら地面に着地。
 そのクッションをバネに、また駆ける。
 しかし。
「駄目ッ、どこも一杯よッ!」
 少女が叫んだ通り、白女はそこら中にうぞうぞと溢れ出していた。
「ああ、みたいだな」
 リョウは涼やかに言って銃をホルダーに仕舞った。
 欠けたタイルの道を踏む。
「このままじゃ私たち……わ!?」
 ぽん、と少女を地面に置いて、リョウ自身も地に身を屈める。
「ど、どうするの!?」
「周りは囲まれたんだ。そうしたら、上か下に逃げるしかないだろう?」
 ガコ、と足元のマンホールの蓋を開ける。
 ぽっかりと開いた大きな穴。
 少女が露骨に嫌な顔をする。
「……もう少しマシな逃げ道は無いの?」
「貴重な意見だな。次のデートまでには考えておこう」 


 ■

 
(……また、跳んだ)
 リョウは己が立っているのが廊下であることを確認しながら、頭の中で呟く。白い壁と消毒の匂い。
 病院だ。
 ォーン、ゴォーンと鐘の音が聞こえていた。
 目の前の病室の扉が開いている。
 個室のようで、ベッドの端が一つ見える。
 病室の大きな窓は開けられており、白いカーテンが風をはらんで大きく膨らみ、たなびいていた。
 窓の向こうには、晴れ渡った空と旧時代の面影を残す街並みが広がっていて、近くに見える教会の先端。
 鐘の音は、おそらくそこから聞こえている。
(水路、朽ちた遊園地、病院。遊園地の風景のみ、妙に現実味が薄かった。……つまり、そこはイメージの方が勝ってるって事なんだろうな)
「……この場所……私、知ってる」
 少女は言った。
 リョウはゆっくりと病室の中に入って行く彼女の背を目で追った。そして、後に続く。
 こじんまりとした、だが明るい部屋だった。白い壁に囲まれたベッドの上には誰も居ない。まっさらなシーツがキチンと整えられている。
 外では白く鳩が群れを成して飛んでいた。
 カーテンを揺らす風は、柔らかく小春日和の温度を含んでいる。
「……ママ」
 少女はベッドを見詰めて、言った。
 そこには、やはり誰も居ない。
「ママ?」
 問い返す。
 少女から声が返るには、しばらくの時間があった。
「ここに……。ここにママが、居たの」
 彼女はぼんやりと立って、カラッポのベットを見ていた。
 思い出される記憶を懸命に整理しているのか、それとも断片がふつふつと浮かんできているのか、少女は、ゆっくりと確かめるように言葉を並べていく。
「ママは、病気で……ずっと長い間、ここに居て……それで、私は、パパといつも、ここに遊びに来てた。そして、ママは病気で死んだ。それは、ずっと前から判っていたこと」
 強く、風が吹き込んでカーテンがはためいた。
 リョウは風に目を細める。
 ふ、と風に紛れて何か、紙切れのようなものが病室に飛んだ。
 それは床に落ちる。
(やはり、場は彼女の記憶をキッカケにして動いている)
 リョウは歩み寄って、その紙切れを拾い上げた。二つに折られた白い便箋。
 そこに書かれていたのはたった一言だった。
 読み上げる。
「『手紙は何処に』……?」
「――ッ!?」
 少女が息を呑んだ気配にリョウは振り返る。
 彼女は胸を抑えながら、どこか苦しげに眉根を寄せてリョウの方を見ていた。
「何か分かるか?」
「……わからない……でも――」
 と、彼女の瞳が大きく開かれる。
「リョウッ!」
「ああ、そろそろだと思ってた」
 少女の叫び声とほぼ同時に、リョウは抜きさったナイフを後方に振っていた。
 天井から釣り下がっていた白女の腕と首が裂かれて、それらが床にボトトと落ちる。
(こっちはもう、ほとんど確定だな)
 床に落ちた腕と首はトロみをおびた液体のように溶けて、跡も残さずに消え去っていく。
 それと同じ速度で床、天井、壁から何体もの白女が姿を現し始めていた。
「リタ。この病室の窓から飛び降りた事は?」 
「あ、あるわけないじゃない!」
「よし」
 つかつかと窓の方へと歩み窓枠に足を掛ける。
「逃げるぞ」
 そして、少女の方に手を伸ばしながら、リョウは笑んでみせた。
「……正気じゃないわ」
「早くしないと掴まるぜ?」
「……うー……」
 少女は、もう少しだけ躊躇してからリョウの傍へと駆け寄って、彼の手を取った。
 リョウは少女の手を引き寄せながら彼女の体を片手で抱き、外の方へと目を向ける。
 暖かな風が眼下の木々を揺らしていて、心地良さに目を細めた。
「絶好のダイブ日和だな」
「だ……大丈夫なの?」
「俺を信じろ」
「……口が軽い男は信用しないの」
 キュ、と少女の腕がリョウにしがみ付く。
「普段ならね」
「懸命だ」
 リョウは小さく笑ってから、彼女を連れて窓枠を蹴った。


 ■

 
 景色はやはり一瞬で移り変わった。風も、音も唐突に消える。
 今度の風景は、とても静かなものだった。
 まず在ったのは闇だった。
 そこに小さなリビングに円錐のカヴァーを被った電灯があり、その下にはテーブルと椅子がある。
 闇の中にぽっかりと浮かび上がったその風景の中、椅子に座った男が、テーブルに肘を付いて頭を抱えながら項垂れている。
 リョウと少女は、電灯の明かりの届かない離れた暗闇から、それを見ていた。
「……私のパパだわ」
「酷く落ち込んでいる」
「ママが死んじゃったから……パパはママをとても愛しているもの」
「君は? リタ」
「私もママは好きよ……好きだった」
「過去形になった」
「……だって、ママは最期に……酷いんだもの」
「酷い?」
「……手紙、を……」
 落下感。
 それに合わせて、男とリビングの風景が上方に飛んでいった。
「思い出したのか?」
 二人はゆっくりと闇の中を落ちていた
「……ねぇ。どうして、こんな風になっているの? なんで、私たちは、まるで……私の記憶を辿っていくの?」
「つまり、このハザードは……この世界は、君の精神世界のようなものなんだろう」
 水路に飛び込んだり、マンホールの穴を潜ったりすると場面が変わるのは、そこが彼女の経験外の場所だから。
「だから、君はあのゴンドラも、遊園地も知っている。そうなんじゃないか?」
「ゴンドラは……ママのお葬式の日。一人で乗ったの。誰も居なかったから、こっそりと縄を解いて……そうだ、私、そこで眠ってしまって……」
「なら、むしろこれは君の夢の中ってのに近いかもしれないな。遊園地は?」
「……パパとママと三人で行った……。ママは病院に入院していたけれど、特別に外出許可を貰って……。今は、もう、良い思い出だとは言えないかもしれないけど」
「……手紙、か」


 気付けば、観覧車に乗っていた。
 キ……キ……と古い鉄の軋む音を立てて観覧車は昇って行く。
 外には何処までも曇り空と荒地が広がっていた。
「ママは最期に私に、手紙を渡したの。パパに宛てた手紙」
 二人は隣合って座っていた。
「ママが死んだ日……本当なら、私はパパにママからの手紙を渡さなきゃいけなかった」
「でも、君は手紙を渡さなかった」
「……先にこっそり読んでしまったの。いけない、とは思わなかった。だって、ママは何も言わなかったし。パパは……声を掛けられない有様だったし」
「手紙には何て書いてあったんだ?」 
「……ごめんね、って。貴方はもう、自由よ。これから幸せになって、ね……て。そんなの酷いと思わない? パパが可哀想だわ。パパはママをあんなに愛してるのに……パパは仕方なくママと一緒に居たんじゃないのに」
 少女の声は濁っていく。
「パパはもう幸せだったのに」
 リョウは彼女の頭を抱いて、胸に寄せた。
 くぐもった嗚咽が胸の傍で聞こえる。
「この観覧車、ね……三人で乗ったの。ママが幸せだわって言って、パパが僕もだって言った。……その時、ママはきっとパパのことを嘘吐きだって思った、のね……」
 じんわりと熱を持った涙で胸元が濡れていく。
「……ねぇ、リョウ。……ママは、パパの本当の気持ちに気付かないまま……いってしまったのかしら」
 彼女の金色の髪を優しく指で梳く。
「さあな……。俺には解りようがない」
 観覧車は頂点に昇り行く。
「だが、君にはいつか母親のことをもっと良く知る日が来る」
「……私が、まだ子供だから判らないっていうの?」
 ふわ、と彼女の頭に手を置く。
「君はもっとイイ女になれるって事さ」
 あやすように彼女の頭を緩く叩いた。
 少女が細く息を吸って、ゆっくりと吐き出す気配。
「あの白いモノは、おそらく君が作り出した罪悪感だ。罪の意識は、罪の認識がなけりゃ生まれない」
「……むずかしいわ」
 ずむり、と少女はリョウの胸元から顔を上げて、赤く腫らした目をこちらに向けた。
 リョウは、すまない、と軽く笑って「つまり」と置く。
「君は、本当は、手紙を渡さなければいけないと思っている」
 少女は、二度、三度、瞬きをしてから、ズッと鼻を啜りながらリョウから顔を離し、ひょろけた息を吐いた。
 もう一度、鼻を啜り、肩を揺らしながら涙交じりの唾液を飲み込み。
「……でも」
 少女は沈痛な顔で目元をすぼめた。
「何処に手紙を隠したのか、思い出せないの」
「レンズ豆の花だ」
「え?」
 少女はきょとんとする。
 リョウは微笑んで立ち上がる。
 観覧車は、丁度頂点に昇っていた。
 ナイフで抉じって観覧車の扉の鍵を開ける。
 パン、とそれを蹴り開ければ、吹き込んだ風にバタバタと煽られて、リョウの髪が踊った。
 彼方で、荒地の端が白い光の中に形を失って散っているのが見えた。
(ハザードが崩壊してきている? もうじき目覚めるってことなのか……なら、残された時間は少ないな)
 リョウは観覧車の出口の端に手を掛け、少女の方に振り返り、微笑みながら手を伸ばした。
「来いよ。大丈夫だ、望むなら其処へ行ける」
 後は跳ぶだけ。


 ■


 小さな黄色い花が揺れていた。
 家族三人が笑うポートレートの中で。
 一面の黄色い花畑が三人の後ろに広がっていた。
 リョウは、ぬいぐるみや本の溢れた棚に置かれていた写真立てを手に取る。
 そこは子供部屋だった。青いカーテンの掛けられた窓の外は、ぼんやりとした光に溢れていた。
「綺麗な写真だ」
「……あの手紙を見たら、パパはやっぱり悲しむのかしら」
 少女がベッドに腰掛けて俯いたまま、消え入りそうな声で呟く。
「リタ……」
 リョウは写真立ての裏の留め具を外して、裏板を取る。
「俺は君に、父親を信じろだとか、冷静に割り切れだの、気合で乗り切れだなんて言うつもりはないし、言いたくもない。ただ――」
 写真の裏に入っていた、小さな封筒を取り出す。
「君は辿り着いた。俺は手を貸しただけだ」
 少女は差し出された封筒に顔を上げた。
 そうして彼女はしばらくの間、じっと封筒を見詰めていた。
 ふと目を閉じて、息を吐く。
 それから、彼女はその大きな瞳でリョウを見上げた。
「リョウ。貴方とは、ここでお別れになるの?」
「そうだな」
 言って、リョウは少女の頭を撫でた。
 部屋の端は、白くパラパラと崩壊し始めていた。
「……あっさりと言うのね」
 少女は、やや俯きながら呟いた。
 彼女はもうじき目覚める。それは二人が共に居られる時間の終わり。タイムリミットは最初から決まっていた。
「10年後――」
 そう零したリョウの顔を少女が見上げる。
 部屋は崩壊し、白い陽光のような光が二人の足元に残された僅かな空間を照らしていた。
「10年後に口説かせてもらうぜ、リタ」
 微笑む。
 それは決して果たされない約束。
 そんなことは分かっている。
 残されていた部屋の一片が消え、眩しい光が二人を包み込む中で。
「……今回よりマシなデートプランを期待してるわ、リョウ」
 彼女は、つ、と顎を上げながら生意気な笑みを浮かべて、消えた。





 そうして。
 リョウは一人、人混みの中に立っていた。
 ショッピングモールのざわめきと雑多な足音が耳の中に溢れる。
 モールの通路中心に設置されている噴水から水が放出される。
 様々な人々が行き交っていた。
 聞こえる。友人との談笑の切れ端や、携帯に向かう声、あるいは疲弊した溜め息。
 リョウは、スゥと細く息を吸って、腕時計で時間を確認しながら歩き出す。
 約束の時間には随分と遅れてしまっていた。何か言い訳を考えなければいけない。
 通りの端でショーウィンドウが行き交う人の中を行くリョウの姿を映す。
 その向こうでは涼しげな色合いのものを身に着けたマネキンが気取ったポーズを取っていた。
 最近は、晴れれば気温は高い。そろそろ夏に向けた服を幾つか買っておいた方が良いかもしれない。
 相手の買い物のついでに適当に見繕ってしまってもいい。
 贔屓にしている店やブランドが無いのはこういう時に便利だ。
 ふと気付けばクレープ屋に並ぶ女子高生らがこちらを見ていたので、軽く微笑み掛けておく。
 小さく上がった色めき声を置いてモールを抜けると、差した日が予想以上に眩しくてリョウは目を細めた。
 陽射しと雑踏から逃れるように道端へと行って煙草を取り出す。
 火を点けようとして。
 リョウは煙草を咥えたまま、ふと、その手を止めた。

 ――そうだ。

 やはり、俺は、あの跳ねっ返りがいつか戻ってきそうな気がしている。
(……10年後、か)
 リョウは小さく笑って、煙草に火を点ける。




 ◆Stray Jamper◆






クリエイターコメントこの度はオファー有難う御座います。
色男と少女のお話を頂き、にへにへと書かせて頂きました。

心理描写、言動などなどイメージと異なる部分があれば遠慮なくご連絡ください。本当に。
出来得る限り早急に対応させて頂きます。
公開日時2009-05-26(火) 18:00
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